東京地方裁判所 平成3年(ワ)10338号 判決 1992年5月07日
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一 請求
原告の被告に対する昭和六一年七月二日付金銭貸借契約(貸付元本二七万七〇〇〇円)に基づく債務が存在しないことを確認する。
第二 事案の概要
一 本件は、生命保険契約上の保険契約者に対する貸付制度を利用してなされた金銭の借入れについて、保険契約者である原告が、右金銭借入れは妻の無権代理行為によるもので無効であると主張して、債務が存在しないことの確認を求めるものである。
これに対し、被告は、原告による代理権授与、無権代理行為の追認、表見代理、民法第四七八条の類推適用を主張しており、争点は、右抗弁の成否である。
二 争いのない事実等
1 原、被告間には、昭和五二年四月一日契約の、原告を契約者兼被保険者、保険金額を八〇〇万円(傷害特約二〇〇万円)、保険期間を一五年、保険金受取人を原告の妻今井和子(以下「和子」という。)とする生命保険契約(生存給金付定期保険。以下「本件保険契約」という。)が締結されている〔甲第三号証、弁論の全趣旨〕。
2 本件保険契約に適用される普通保険約款には、保険契約者は解約払戻金の九割の範囲内で被告から貸付を受けることができる旨の保険契約者に対する貸付制度(以下「契約者貸付制度」という。)がある〔乙第一号証の一、二〕。
3 和子は、昭和六一年七月二日、原告の代理人として、被告(日本橋総支社)に対し、契約者貸付制度に基づき二七万七〇〇〇円の貸付を申し込み、被告は、これを承諾して、貸付金額二七万七〇〇〇円から印紙代四〇〇円を控除した二七万六六〇〇円を太陽神戸銀行砂町支店にある原告名義の預金口座に振り込んだ〔争いのない事実〕(以下、右貸付を「本件貸付」という)。
三 争点(被告の主張)
1 代理権の授与
原告は、本件貸付に先立ち、本件貸付についての代理権を和子に授与した。
2 追認
本件貸付金が振り込まれた銀行預金口座は、原告が本件保険契約の保険料支払いのため自動引落し用に利用しているものである。原告は、毎月の保険料支払いのため預金残高の確認を行っていたはずであり、本件貸付金が入金されたことを当然知っていたはずであるが、本件貸付がなされた昭和六一年七月二日から原告が被告に対して本件貸付を否認する趣旨の書面を送付した平成二年六月までの間約四年間にわたり、本件貸付を黙認してきたのであるから、原告は和子による本件貸付を追認したというべきである。
3 表見代理
(一) 本件保険契約は、和子が原告から授与された代理権に基づいて締結したものであり、和子は、その後も、原告を代理して保険料を支払っていた。
(二) 和子は、本件貸付を受けるに当たり、本件保険契約の保険証券と右保険証券及び本件保険契約申込書(乙第五号証)に押捺された原告の印鑑と同一の印鑑とを持参し、かつ、右印鑑の押捺された原告名義の委任状(乙第三号証)を提示した。被告の担当者は、和子の持参した健康保険証により、和子が原告の妻本人であることを確認し、本件貸付金の振込先である銀行口座が原告名義の口座であることを確認したうえで、和子に原告の代理権があると信じて、本件貸付を行ったものである。
(三) したがって、仮に和子が本件貸付についての代理権を有しなかったとしても、右のような事情のもとでは、被告が和子に代理権があると信じたことには正当な理由があるというべきであるから、民法第一一〇条の表見代理が成立し、原告は本件貸付について本人としての責任を負うべきである。
4 債権の準占有者に対する弁済(民法第四七八条の類推適用)
(一) 契約者貸付制度においては、保険者である被告は保険契約者の貸付請求に対して貸付義務を負担しており、貸付の諾否につき裁量の余地はない。そして、貸付金額は解約返戻金の九割の範囲に限定され、保険金支払いの際に貸付金の元利金が差し引かれることになっており、保険契約者には貸付金の返済義務がないところから、貸付金は実質的には解約返戻金の前払いということができ、貸付の実行は、保険者たる被告の債務の弁済と解される。
したがって、保険者たる被告において、保険契約者であると信じさせるに足りる外観を備えた者の請求により、その者に対して貸付を行った場合には、その者が真実の保険契約者でなかったとしても、貸付の当時保険者として負担すべき通常の注意義務を尽くしていたときは、民法第四七八条の類推適用により、債権の準占有者に対する弁済としての効力を認めるべきである。
(二) そして、債権者の代理人と称して債権を行使する者も同条にいわゆる債権の準占有者に当たると解されるから、原告の代理人として本件貸付を受けた和子は債権の準占有者に当たるところ、前記のような事実関係のもとにおいては、被告が和子を原告の代理人と信じて本件貸付を実行したことに過失はなく、したがって、本件貸付は、原告に対して効力を有するというべきである。
第三 争点に対する判断
一 代理権授与について
1 本件全証拠をもってしても、原告が本件貸付についての代理権を和子に授与した事実を認めることができない。
2 被告は、保険契約者を代理して保険契約を締結し、保険料を支払っている者は、保険料の支払いが継続されて保険契約の効力が存続している間、保険金の請求、保険料免除の請求、契約者に対する貸付等当該保険契約の約款に基づく諸権利の行使につき代理権を有する旨主張するが、被告の右主張は根拠に乏しく、採用することができない。
二 表見代理について
1 甲第一ないし第三号証、原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、原告は、和子の勧めで本件保険に入ることを承諾し、保険契約締結についての代理権を和子に授与したこと、和子は、右代理権に基づき、原告の署名を代行し、原告から預かっていた印鑑を押捺して、保険契約の申込みを行い(乙第五号証)、被告との間で本件保険契約を締結したこと、原告は、勤務先から支給される給料を全部和子に渡し、小遣いを貰う程度で、家計の管理一切を和子に任せており、銀行預金の出し入れ、預金通帳や印鑑の保管も和子に一任していたこと、本件保険契約に基づく保険料の支払いは、太陽神戸銀行砂町支店にある原告名義の預金口座からの自動引落しによって行われていたことが認められる。
2 次に、乙第二号証、第六号証、証人嶋田光子の証言並びに弁論の全趣旨によれば、和子は、昭和六一年七月二日、被告の日本橋総支社に赴いて、契約者貸付制度に基づく貸付を申し込んだこと、その際、和子は原告名義の委任状(乙第三号証)を提示したが、右委任状には本件保険契約の保険証券(甲第三号証)及び保険契約申込書(乙第五号証)に押捺された原告の印鑑と同一の印鑑が押捺されており、和子は右保険証券及び右印鑑を持参していたこと、被告の担当者は、和子の持参した健康保険証により和子が原告の妻本人であることを確認し、本件貸付金の振込先である銀行口座が原告名義の口座であることを確認したうえで、和子に原告の代理権があると信じて、本件貸付を行ったことが認められる。
3 以上の事実に照らすと、和子が本件貸付を受けたことは原告から授与された代理権の範囲を踰越したものといわざるを得ないけれども、和子から本件貸付の申込みを受けた被告の担当者が和子に原告を代理する権限があると信じたことも無理からぬところであり、その尽くすべき注意義務を怠ったとはいえないというべきである。
したがって、被告が和子に代理権があると信じたことには正当な理由があるというべきであるから、民法第一一〇条の表見代理が成立し、原告は本件貸付について本人としての責任を免れないというべきである。
4 そうすると、本件貸付について債務が存在しないことの確認を求める原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、棄却を免れない。